<ロビー・デューク>
 1956年12月6日、ミシシッピー州の郊外タラハチ・カウンティの出身。父親はギターとサックスをプレイするなかなかのミュージシャンで、ブッカー・T&MG'sの面々とも交流が深かった。そんな父の影響で、ロビーもまずはマディ・ウォーターズ、BBキングといったブルースに惹かれ、さらにアイク&ティナ・ターナー、ジョニー&エドガー・ウィンター、ボビー・ブランド、ステイプル・シンガーズといったR&B/ロック系のサウンドを好むようになる。
 小さい頃から父に連れられ、ライヴ・ハウスに顔を出していたロビーは自分でもドラムス、キーボード、ギター、ベースと全てのリズム楽器をマスター。そして12歳から父のバンドThe Delta Rhythm Boysに参加しそこで主にベースをプレイするようになる。ちなみに当時のフェイヴァリット・ミュージシャンはブッカー・T&MG'sで同じくベースを弾いていたドナルド・“ダック”・ダンだということだ。
 ブルースからスタートしたロビーの音楽人生は高校に入るとさらに多方面へと拡がっていく。ジェイムス・テイラーのようなシンガー・ソングライターから多大なる影響を受けたのもこの頃。また、ジャズやクラシックへの興味も拡がり、高校卒業後はクラシックの声楽をきっちり学んだと言う。
 そんなロビーが自作の曲を携えて新たなる旅に出たのが1976年頃。まずはお隣り、テネシー州ナッシュヴィルを訪れるがこれといった感触を掴むことなく帰還。続いて1978年、今度はLAに渡り、ここで新たなるハプニングを待つのだった。彼のソングライティングは口コミで広まり、当時のMCA/SongbirdのチーフA&Rだったチャーリー・ショウに認められ、ディールを獲得。デビュー・アルバムはCCM界の名プロデューサーで、当時すでにブルース・ヒバードの名作「Never Turnin' Back」を手掛けていたジョンサン・デヴィッド・ブラウンが制作を担当。「Not The Same」というタイトルが付けられたそのアルバムは日本でもリリースされ、AORファンから非常に高い評価を得る。
 しかし、アルバムが出るか出ないかの頃にMCAに大リストラが起こり実に100人以上のアーティストが首を切られることに。そんな中に入ってしまったロビー・デュークは再びCCM系のレーベルを捜し、そこで、フレディ・ピロの主宰するGood News Recordsと契約。ピロはアンブロージアのマネージメントも長年手掛けていたその筋では有名な人。
 そのピロのバック・アップで1984年に「Come Let Us Reason」をリリース。以後も「Blue Eyed Soul」(86年)、「Down To Business」(89年)、「Bridge Divine」(94年)と計4枚のアルバムをグッド・ニュースから発表している。
 また、ロビー・デュークは80年代からプロデューサーとしてもいろいろなアーティストを手掛けているが、特に90年以降はかなりアクティヴに手掛け、アメリカのCCM系はもちろんのこと、ヨーロッパの名レーベル:クレプスキュールのアーティスト(Great Big Buildings)までプロデュースする多彩ぶりを発揮。さらに、親友:デニース・ウィリアムスの日本公演にギタリストとして同行したこともあり、実に幅広いフィールドで活躍している。
 その他にも、エリック・パーシングが主宰するスペクトラソニック社のCD-Rom制作にも大きく貢献し、そのプロダクトの1つとして、一度に3つの音を出すという驚異の発声法を持つTuvan Throat Singersのアカペラを世界で初めてレコーディング、大きな話題を呼んでいる。