<ジョンソン・イノス>
 <P r o f i l e>

 ジョンソン・イノスは1963年12月10日、ホノルルの生まれ。12〜13歳の頃、ジャクソン5の<ABC>に魅了され、以後ジャンルを問わず様々な音楽に耳を傾ける。最も尊敬するアーティストはスティーヴィー・ワンダーで、他にも、シカゴ、バリー・マニロウ、ジョージ・ベンソンらが特にお気に入り。17歳の時にピアノを始め、その1週間後にオリジナル曲を書くようになる。初めて書いた2曲が<If Only We Could Be>と<My Love For You(Will Never Die)>で、これらは1987年にシングルのAB面としてレコード化されている。
大抵のアーティストは一番最初に書いた曲のことを「憶えてはいるけれど、世に出せるものではなかった」と笑って振り返るものだが、このジョンソン・イノスの場合は、処女作から素晴らしいクォリティを持っていた、即ち、彼は天性のソングライターだったのである。しかも、そのA面曲<If Only We Could Be>はハワイでちょっとしたヒットを記録している。
『シングルの評判はとても好かったよ、自分でも吃驚するくらい。ラジオで頻繁にかかり、ゲスト出演もして、ライヴもいろいろな場所でやったよ。本当にポピュラーな1曲になって、その後、(ハワイの人気グループ)クラッシュもレコーディング。そっちもヒットしたんだ』
 ジョンソン・イノスのシンガーとしての活動を今一度振り返ってみると、10代終盤の時に、ワイキキ・マリナ・ホテルのラウンジで歌ったのが人前で歌う最初の仕事だった。その後、20歳から21歳まで今度は、カリフォルニア:アナハイムの本家ディズニーランドで1年半歌い、再びハワイに戻る。マウイ島のハイアット・リージェンシーをベースに約10年間歌い続け、その間に前述のシングルをリリースする。そしてそのシングルの評判を受けてアルバムも制作。1988年にセルフ・タイトル作「Johnson Enos」をR&B Recordsから発表する。プロデュースはジョンソン本人に加え、コンテンポラリー・ハワイアンの顔的存在としてマッキー・フェアリー他、数々のアルバムを制作しているリック・キーファー、そして、マルチ・キーボーディストとして、ドン・ホーのアルバム他、いろいろな作品でプロデュース、アレンジを行っているデヴィッド・カウアヒカウアが参加。リック・キーファーの有名なスタジオ、Sea West Studios/Hawaiiでレコーディングは行われた。バックには、ハワイのスタジオ界きっての名ギタリスト:ヴァーノン・サカタが参加している。
 この1stアルバム「Johnson Enos」では、ヤング・ラスカルズ1967年の全米No.1ヒット、<Groovin'>をカヴァーし、また、マイク・マクドナルドの<Fools In Love>という作品も取り上げている。さらに、1950年代後半から60年代中盤にかけて全米チャート入りするヒットを数曲持っている他、リトル・アンソニー&ザ・インペリアルズのプロデューサー、ソングライターとして1964年に大ヒットした<Goin' Out Of My Head><I'm On The Outside(Looking In)>他、数々の作品を生み出しているテディ・ランダーゾの作品<Me And You>も歌っているが、テディは1980年代はハワイとの交流が少なくなかったようで、ジョンソンも彼とハワイで知り合いその彼を通じてその後のLAコネクションを形成していく。
 3年後の1991年に同じくR&B Recordsから2ndアルバム「Be My Love」を発表するが、ここには、彼の代表作品となる<Oh Girl(I Love You)>が収録されている。この曲は1999年に発表された3作目「Forever」でも再演されているが、このアルバム「Forever」はLAで録音され、プロデュースにウンベルト・ガティカ、クロード・ガーデット他が参加、さらに、アレンジャー、プレイヤーとして、ロビー・ブキャナン、マイケル・トンプソン、ディーン・パークス、マーク・ポートマン、ウォーレン・ウィービー他、錚々たる人達が顔を揃えていた。日本盤のリリースこそ無かったものの、このアルバムは輸入盤店でちょっとした話題を集め、多くのAORマニアを刺激している。
 現在もジョンソンは毎週のようにLAに渡り、マーク・ポートマン、ウンベルト・ガティカを始めとする一流どころとコラボレーションしポップ、R&B、さらにラテン・ポップ系の作品を生み出している。加えて、ナッシュヴィルに行く機会もあり、そこではCCMのソングライターと一緒に曲を書いている。アイランドの生まれながら本土を活動の場にしている数少ない本格派、ジョンソン・イノス。彼の活動には今後も目が離せない。