<マーク・マウリン>
 1951年4月16日北カリフォルニア:マリン・カンティの生まれ。14歳の時にザ・ビートルズの映画「ヘルプ」を観てギターを始め、16歳の時には何千人ものオーディエンスを前にプレイしていたという早熟型のプレイヤー。1969年にはサン・フランシスコの有名なクラブフィルモア・ウエストにリー・マイケルズと一緒に出演。他にも地元のカルト的ヒーロー:グレイトフル・デッド、ジェファーソン・エアプレイン、ジェシ・コリン・ヤングのヤングブラッズ他ともフェスチヴァルで共演している。 1973年にLAに移住するが、彼の弟が、スティーヴ・ルカサーやマイケル・ランドウ、スティーヴ・ポーカロらと同年代だったことから、彼らと知り合い、LAのスタジオ・シーンで活躍するギタリストが持っている機材や、セッションならではの奏法、スタイル、というものをその“年下のモンスターたち”から学ぶ。1978年になると、ベイ・エリア時代からのヒーローであり親友のビル・チャンプリンがサンズ・オブ・チャンプリンの解散に伴い、LAに移住。デヴィッド・フォスターのプロデュースで1stアルバムを作るに当たって、マーク・マウリンはそのプリ・プロダクション・テープ作りを手伝って欲しい、と頼まれる。それを完璧にこなしたマークは再びビルの口利きで男性シンガー:アンジェロのセッションに参加。デヴィッド・フォスター、リー・リトナー、ハーヴィー・メイスン、マイク・ポーカロ、ピーター・セテラ..超豪華なメンバーが参加した彼のアルバム「Midnight Prowl」(1978年:Fantasy)でギター・ソロをプレイする名誉な機会が訪れる。  その後、ビル・チャンプリンからトム&ジョンのキーン兄弟を紹介され意気投合。直ぐに彼らのグループに加入し、グループ:キーンとして活動をスタートする。当初はもう1人、カーメン・グリロ(後にタワー・オブ・パワーに参加。現在は脱退)とのツイン・ギターだったが、アルバムのレコーディングを始める前にカーメンは脱退。マークが唯一のギターとして1980年からアルバムの制作を開始。実に9ヶ月を掛けてアルバム「Keane」を完成させる。そのアルバムは1981年に日本だけでリリースされるが、TOTOのドラマー:ジェフ・ポーカロが彼らを大絶賛していたり、TOTOの弟分的な見方がされたことから高い評判を得る。そして1982年に2ndアルバム「Today, Tomorrow And Tonight」をこれまた日本だけで発表。ここではオリジナル・ベーシストのマイク・ミルウッドが抜け、代わりに、現シカゴのベーシスト&ヴォーカリスト:ジェイソン・シェフが加入している。  その後、キーンとしての3枚目を制作するという話しも出たが、マークはその年、結婚し、さらに、娘さんが生まれたことから、音楽に掛ける情熱よりも家庭を守ることを優先。その後は主に映画やTVの音楽を手掛けるなど、どちらかというと裏方へと回ってしまう。  そんなマーク・マウリンが再びフロントへと戻ってきたのは、1999年。それまでに彼が手掛けたTVや映画用の音楽を再構築し、1枚のアルバムまとめるというアイデアが出た。そのプロジェクトはマークのソロではなく“ヴィジョナリー”という名義になり、「HIghest Calling」というタイトルで自主レーベルMt.Tamalpaisからリリース。作曲は全てマーク・マウリン本人が手掛け、ゲスト・シンガーとして、現シカゴのビル・チャンプリン、元エアプレイ〜ザ・フロント〜ホワット・イフ〜キング・オブ・ハーツ、そして一時期はボストンのリード・ヴォーカルでもあったトミー・ファンダーバーク、ケニー・ロギンス・バンド〜キング・オブ・ハーツ、そして矢沢永吉のバンド・メンバーとしても何回も来日しているジョージ・ホーキンス、1998年にポニー・キャニオンからソロ作を出し、<ソー・ファー・アウェイ>のカヴァーでリスナーの胸を打ったデヴィッド・モーガン、LAのセッション・シーンでは25年に渡ってトップ・クラスであり続ける実力派カーメン・トゥワイリー。一時期、キーンで一緒にプレイしていたカーメン・グリロ、デヴィッド・フォスターの秘蔵っ子として数々の名唱を残しているレイト・グレイト:ウォーレン・ウィービーが参加。また、バックにも元キーンのジョン・キーン、元マクサスのドーン・ペリー、アンブロージアのバーリー・ドラモンド、映画「ステイン・アライヴ」や「ロッキー4」を手掛けたことでもお馴染みヴィンス・ディコラ、説明不要のスティーヴ・ポーカロ、デヴィッド・ガーフィールド..実に美味しいメンバーが多数参加している。また、アンドリュー・ゴールドがミキサーとして参加しているのも非常に興味深い。このアルバムが2001年4月8日、キーン時代の1st&2ndと一緒にクール・サウンドから日本発売される。